煙突と煉瓦の歳月

二種類の煉瓦

秀緑の赤レンガ煙突と水槽

 シンボルマークにもなっている観光交流センター秀緑の赤レンガ煙突は大正12年11月に作られたものです。
 この年の9月1日、関東大震災が発生しました。関東大震災からわずか3か月後にこの赤れんが煙突が作られ、ボイラーへの通水のために作られた水槽の壁面に「大正十二年九月一日の震災の為めに日本国の失った富は只一つ 国民の真面目なる努力に依って取返へし得る事を記憶せよ」とあることから、この地でも何らかの被害があったものと推測されます。もっとも震災後すぐに建てられたことを考えると、もともと建築の計画があったことも想像できます。

栃木県野木町 ホフマン窯の様子

 この煙突に使われている煉瓦は現在の栃木県野木町にあった、旧下野(しもつけ)煉化製造会社で作られたもので、イギリス積みで組まれています。下野煉化では明治23年(1890)から昭和46(1971)までの間にホフマン式の煉瓦窯で多くの赤煉瓦を生産し、日本の近代化に貢献しました。
 ホフマン式の煉瓦窯は日本に4基ほど状態のよい遺構が残っており、野木町の煉瓦窯は国の重要文化財および近代化産業遺産群の一つに選定され、見学ができます。

 ※旧下野煉化製造会社煉瓦窯(通称、野木町煉瓦窯)へは秀緑から車で1時間程度です

秀緑主屋南側の煙突

 観光交流センターにはもう一つのレンガ煙突が主屋南側にあります。
 主屋の台所があった場所に作られたこの煙突は、下野煉化製ではなく大正12年関東大震災で大打撃を受けるまで稼働していた小菅にあった集治監の煉瓦と思われます。
 煉瓦工場ではどこの製造所で作られたかわかるように、煉瓦に刻印がされている時代がありました。主屋壁側の煉瓦を観察すると小菅の集治監で押されていた複弁桜花章と思われる刻印を見ることができます。

 明治5年の「銀座の大火」により耐火建材として銀座の街並みを彩った小菅の煉瓦。
 明治30年以前に建築された主屋、そして台所の小菅の煉瓦煙突。
 大正12年の関東大震災で製造が止まった小菅の煉瓦と、下野の煉瓦で作られた秀緑の赤レンガ煙突。

 関東大震災で煉瓦建造物に大きな被害が出たことから、以降耐火建材は煉瓦から鉄筋コンクリートへと移り変わっていきます。

 観光交流センター秀緑にある二つの煙突と煉瓦から、建材の大きな流れの変化を感じていただけると思います。

貸出

次の記事

貸出再開のご案内